彫物名鑑 小松堂

ヤフーのブログから引っ越してきました。 以前のカテゴリーは、そのまま移動されていました。 社寺彫刻、だんじり彫刻や浪花彫物師の彫物および野仏や磨崖仏を紹介します。

2015年03月

‘藤七彫’の獅子鼻

‘藤七彫’の獅子鼻は、前回の唐獅子の首をそのまま木鼻に映した姿そのものとなる。

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空区の地車は、近年において‘黒田正勝’や‘川原啓秀’の彫物を追加し、地車は改造されているものの、もともと相野藤七以下の彫師によって作成されたと見てもよい。

バージョンの少し異なる獅子鼻
来迎寺山門の獅子鼻や大恩寺山門のは、やや角ばった顔の印象を受ける。



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川面、川面東の獅子鼻は、‘藤七彫’に似るものの、私にとってはどうしても‘藤七彫’とは言い難く、顔の表情から受けるイメージが異なる。

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『藤七彫』と書かれた墨書

星田東の縣魚裏面には、『なんば 藤七彫』とあるが、二十数年この地車の彫物を見続けていても、
紹介している‘藤七彫’との彫が一致しない。
一世代前の‘藤七’か、もしくは別人の‘藤七’の可能性が大きいといえる。

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( 星田東 縣魚裏面 )
つづく・・・。

彫物師 相野藤七は、相野一門の中で一番の名工と察する。
同門の相野伊兵衛や徳兵衛は、地車や社寺彫刻などにその銘が見られるが、‘藤七’の銘はほとんど見ることがなく、無銘に近い。 文政三年刊〔1820年〕の『商人買物独案内』の店舗広告の古文書においても「彫物屋伊兵衛」の名は、見られるものの‘藤七’の名はなく、 伊兵衛や徳兵衛との間柄も不明で、それを知る由もない。
ただ残されている彫物から推察するのみである。
‘藤七’の彫は、伊兵衛や徳兵衛よりも細部に緻密な細工を入れるところにある。
たいていの彫物は、視線から隠れているところ、目に付かないところには、いい加減な仕事をしているものが多いが、‘藤七’の場合、その裏面まで丁寧に仕上げているのが多くある。
 ‘藤七’のその彫は、のみ跡が鋭く、くっきりと浮き出たような深い彫が特徴と言える。
私個人の主観的な見方も入ると思うが、製作年の差異や仕上げなど彫手が異なる場合もあり、また先代の‘藤七’がどのような彫であったかも不明であるため結論付けができないが、ここでは、‘藤七彫’と言っておきたい。

さて、唐獅子の彫は、ほぼこのタイプになる。
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また、‘藤七彫’の唐獅子には、二頭の獅子が噛み合う‘からみ獅子’の図案が用いられることがある。

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円満寺のものは、オリジナルの藤七彫とは言えないが、同図案(下絵)を同門下の彫師が手を入れていると考えられる。

つづく・・・。

室町時代再建の喜光寺の本堂。
国の重要文化財指定で、すごく大きい建物です。
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(喜光寺)
菅原天満宮の枝垂れ桜
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(菅原天満宮)
その桜の下で、牛さんがうっとりと花見をしていました。
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(菅原天満宮)
ここのお寺さんの山門には、・・・おりました!。
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(常福寺)

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この龍をみて、明治期、いや明治中頃、いやもうちょっと新しいものではと、思える?。
本堂では、何ぬ!
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獏鼻は、春うららのような雰囲気だが、
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蟇股で見たものは、
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エンターテイメントのような力神さん
梁をしっかりと支えています。

この路地にも、このような小屋が。
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(疋田)
この路地の狭さでは、だんじりは出せません。
隙間から覗けば、太鼓台?のようです。

西大寺の本堂。
かっては、東大寺と並ぶ、東西に五重塔を持つ巨大な伽藍の寺院であった。
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(西大寺本堂)
この本堂は、文化五年ころの再建。
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蟇股の三ヶ所には、龍の彫物。
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相野系統の龍に似ているが、中川系の彫かもしれない。
中川系の彫については、私は無知なので、何も言えないが、貝塚の‘水間観音’(文化八年)に彫られたものにも似ている。
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(水間観音)

とうとう奈良市内までやって来ました。

ここのお寺さんの山門には・・・?。
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(光傳寺)
近づいてみなければ、何が彫られているのか・・・?。
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おっ、これは力神でなく、仁王さんだ!。
東大寺南大門の金剛力士像を模したものか、こんなの初めて見ましたょ。

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田畑に降り立った巨大な野鳥は、アオサギさんだ。
何か、くちばしににくわえています。
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くわえた獲物は、ドジョウかタウナギのように見えますが?。

ここのお寺さんにも・・・。

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(龍蔵院)

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あっ、これはもしかして、小松さんだ。
獏鼻を見ると、
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源蔵さんのように見えます。

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六分咲きでしょうか?きれいに咲いています。
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この手の小屋を見つければ、ワクワクします。
覗き穴を見つけようとしたのですが、隙間なしのシャットアウトの扉。
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(蓬莱神社)
聞くところによれば、中に入っているものはだんじりではなく、太鼓台とのことです。

つづく・・・。

製作年が判る伊兵衛さんの地車は、今のところこのだんじり、太子町の西町地車のみである。
地車内の梁に書かれた墨書。
ここに「天保三年壬辰六月造」とある。
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獅噛や唐獅子の顔を見れば、伊兵衛さんと判るしろもの。

もうひとつ、伊兵衛さんならではの‘龍’がある。
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このイメージの龍を見かけたら、伊兵衛系の龍と見てもよいのでは。
何といっても、眼の目じりと目がしらに‘三角’の切込み(マーク)が入れられる。
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伊兵衛系列では、眼の前後に刻みが入れられるが、藤七系のものでは目がしらのみである。(北ノ町、下野)

徳兵衛系において、明治期からの作と考えられるものには、何故かこの刻みは入れられていなく、今後の課題である。

続いて、龍に付け加えられる、波頭。
ドボーンと吹き上がる波しぶき。
この波頭、小松や彫又でも彫られているが、伊兵衛さんのものは独特である。

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伊兵衛さんのものは、‘うどん’でいうのなら、‘きしめん’タイプの幅広い波頭が特徴である。
藤七さん系統のものでは、普通の‘うどん’、
しからば、小松源助(八代目)のものは、‘パスタ’となる。

〔 以上のことは、個人的な意見ですので、彫物師とうどんとは、何ら関係はございません〕





彫物師相野一門の中で、この伊兵衛さんが一番多くの銘書きを残している。
文献では、文政三年の『商人買物独案内』に店の一広告として、‘彫物細工所 相野 彫物屋伊兵衛’として転載されている。
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彫物の銘書きには、「相野伊兵衛」と書かれたものと、さらに「直之」の名前が付け加えたものがある。
その下には、おなじみの「工」の文字と「の」の文字を組み合された花押、今で言うのなら商品登録のようなマークが付けられる。 
生誕や生涯年齢は不明、おそらく地車の彫物から想像すれば、ほぼ江戸末期から明治初期と推測される。
 「商人買物独案内」での伊兵衛さんは、文政三年発刊(1820年)なので、一世代前の伊兵衛さんであろう。

さて、この伊兵衛さんの彫物、特に獅噛の彫刻は、一度見たら忘れられない風貌をしている。
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鼻筋の彫や口まわり、前足の形状、渦を巻いた大きな毛並など、伊兵衛さんならではのものである。
唐獅子については、その特徴が顕著である。
正面向きの顔を得意としているのか、何体か見られる。
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やはり、正面向きの顔は、イコール獅噛の顔になる。

横向きの獅子も伊兵衛さんならではのスタイルとなる。
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鼻の形状もさることながら、口まわりの湾曲した形、鼻下から口元に伸びる溝、
第一犬歯のところで三角形の山形の溝が入り、第二犬歯のところで大きくうねる。
この彫は、同門の‘徳兵衛’さんの彫でも見られるが、伊兵衛さんよりも湾曲は浅い。

同様な意匠は、片側の唐獅子でも見られる。



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次に、このタイプの唐獅子。↓
先ほどの唐獅子よりもよりスマートになった感じがする。
伊兵衛さんの後期バージョンのものか?、また次世の伊兵衛さんの彫か?とも考えてみたが、
私には、同じ伊兵衛さんに見える。

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霊明殿の唐獅子をアップすると、
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明和地車のものと比較すれば、霊名殿のものと同じ彫師が彫ったものと判る。

野崎地車のこの部の唐獅子では、湾曲も浅く、第一犬歯のでる位置が異なる。
仕上げが違う彫師によるものか?。

伊兵衛さんのスタイルに似た彫で彫られている川面地車の場合、やはりこの伊兵衛さんの彫ではないことが判る。

つづく・・・。

ある先生より推薦されました本を紹介します。

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『愛しきほりもの』  著書 みずのさなえ
A5版 94ページ 定価972円(税込) 2015年1月15日発行 人間社
著者のさなえさんは、山車彫刻研究家の水野耕嗣氏の奥さんで、ある祭りでふと見た山車の彫物に感動を覚えたそうです。 幼いころに読んだ絵本、その中に描かれた動物と同じような彫刻を発見し、
あたかも話しかけ、会話しているような彫物に出会って感銘されました。
このような彫物を残してくれた彫物師さんに思いを馳せられ、みなさんにも見てほしいという思いで、この本が出来上がったそうです。
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(「愛しきほりもの」より転載)
本編は、「うふっ」、「えへっ」、「へえ~っ」の三編にて彫物をまとめています。
子供さんに聞かせるようなお話しの口調で、各彫物のカラー写真にコメントされています。
中部地方の彫刻が中心ですが、身近なところでは京都市の瀧尾神社、以前このブログでも紹介しましたが、本著では‘十二支’が紹介されています。
女性の目線で観た彫物、愛情から捉えた新しい観点での本書を、あなたの手に取ってみてはいかがですか!。

川西町といっても、ここは天理市。
ここのお寺さんにも‘龍’の彫物が、
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何だか、‘小松’さんみたい・・・、でもないか?。
内側にも、彫物が、・・・。
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これは、‘牡丹に唐獅子’の彫物だ。
アップすると、
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うむ、これは、‘相野’さんか‘小松’さんのよう。
どちらかと言えば、‘小松’さんでしょうか?
左右にある獏鼻を見ると、
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この獏鼻は、‘相野’さんのよう、
決め手のポイントの耳が、両耳とも欠損!あちゃ~。
本堂の彫では、
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こちらは、‘相野'さんや‘小松'さんでないみたい。
山門よりもずうっと古い彫物のようです。
では、最初の‘龍'に戻って、
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なぜか納得がしない。
眼には、白い石が入れてあり、角は欠損、耳も欠けている。
爪を見てみると、
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あっ、源蔵さんのモチーフの肢だ。

え~い、とばかりにペイントにより眼を描き込んだら・・・。
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おっ、‘源蔵'さんが出来上がった!。
彫物は眼が命、眼の入れ方によって、その彫物の印象ががらりと変わる。

和歌山県のお寺さんに「小松源助」の墨書きのある欄間彫刻がある。
当初、HPで見て、この彫は‘贋作’だと思っていた。
HPの画像では、こと細かいところまで見えないが、波頭や龍の肢からそびえ上がる火炎の彫など、小松の彫に見られるものである。 
ここの本堂は、天保14年に再建されたということで、その当時のものか、またそれ以前の彫物の流用かとも考えてみたが、どうも年代的に六代目の源助の龍に見えない。
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ところで、日之出町地車の高欄合には、‘小松源助’と‘小松源蔵’の墨書きがある。
この地車のほとんどの彫物は、‘相野’(伊兵衛)によるものだが、高欄合のみ‘小松’が引き受けているようである。
高欄合には、‘珠取り海女’の物語が彫られて、源助の墨書きのある龍の彫は、やたらと肢の爪が長く、浄明寺さんとこの龍にも似ている。 この彫が六代目源助に相当するものかは、今のところわからない。
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参考までに源蔵のコンパクトな龍の彫物をあげておく。




   
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<海を渡った小松源助>
海を渡った小松源助には、昨年の愛媛県にある山車を紹介した。
もうひとつ、アメリカへ行ったものがある。 これは、もと大阪天満宮?にあったといわれ、ところどころに
珊瑚や水晶玉で装飾された‘Shinto Wheel Shrine’と呼ばれるミニ地車で、源蔵と源助が製作したと書かれている。 彫物の形態と説明記載された製作年が、年代的に不合理な面があり、また展開すべき画像もないため、またの機会にしたい。
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  (G.W.V  Smith Art Museum HPより)

<九代目源助の墨書>
‘九代目小松源助’と書かれたものは、二点ほど発見されている。
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これを見つけてくれた泉州の恩人には、その努力と感謝をしたいが、どうやら眉唾物のようにも思える。
その考えられるひとつには、その彫には全く源助の面影がないということである。
もうひとつには、八代目源助の跡取りとして婿養子となったといわれている源助が、小松家系に属し、誇張するような表記はしなかったと思われる。
それが、九代目源助以降の小松の姓を名乗らせてもらえなかった‘美濃村松雲’(十代目) には、
彫物にバンバンとこの但書きが刻まれている。
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終わりに、
<ある二人での会話>
〔私〕 : 昨年、大東市内で源助さんの彫物を発見しましたよ。
〔相手〕 : 「大東市内で、まだあったのですか?」
〔私〕 : 「そう、これです!」
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〔相手〕 : 「この麒麟さん、源助さんの彫ですか?」
〔私〕 : 「拡大しますょ」
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〔相手〕 : 「ウワ~ッ、ウォ」
〔私〕 : 「麒麟さんの顔、源助さんのにおいがプンプンしていますね!」
〔相手〕 : 「なるほど、これが‘奄美のだんじりから学ぶ’ことだったのですね!」

-完-

さて、瀧地車には銘書は発見されていない。 この三台だけで比較検討するのには、北河内で見られる具象化された彫物でないし、製作年も離れているせいか、確実にイコールとならない。
検討する瀧地車の写真は、今から14年以前のもの、また神境町と四丁目のものはできるだけ角度を工夫して撮影を行った。 ただ似ているだけでは回答にはならないが、ほぼ納得のいく彫物で見てみると、
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瀧と神境町の獅噛を比較すると、鼻の形状、鼻下から口もとの流れる線、前足の形状、控えめな毛並のヒレ、
何といっても目線からの角度が一致していることでしょうか。

次に唐獅子の顔、
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獅子の容貌も全く異なるものでもなく、なんとなく似ている。
次に獅子鼻、
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この獅子の容貌も似ているが、確実にイコールとは言い難い。

次に‘梅に山鵲’の彫物があった。
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う~ん、鳥の形状は似ているといえる。

次に四丁目と瀧の龍、
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龍の口の流れや鼻の形状は似ているといえる。 だが四丁目のものは耳の穴が深い。

次に瀧の泥幕・虹梁と神境町の三枚板に彫られた‘波’の形状を見る。
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透かし彫りに活かされた波の流れやうねるような形状は、同彫師によるものと見てもよいのではないか。
瀧の脇障子にもこのような意匠が見られる。
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この瀧地車の彫物、同時期の源蔵の彫と一味違い、浮き出されたように見える彫の深い手工は、八代目の源助と比べても引けを取らない腕前を持っていると思われる。
私としては、瀧の彫物を六代目源助と見たいが、この三台のみの比較においては、決定はできない。
もう数台の検討の必要があるだろう。

つづく・・・。

ついに、あの伊兵衛さんがよみがえって帰ってきました。
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あのチョコレートブラウンのベールを脱ぎ、新たな姿を現しました。
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獅噛と飾目、脇障子は新調され、その他の部分は以前の彫物を使用。

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泥幕の図柄も正しい組合せに直されました。 この部分は、相野さんの彫ではないように思われます。
修理前のものとを比べると・・・、
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あちゃ~、すごく、すごくきれいになっています。 見違えます。

枡合の麒麟さんも新品みたいに。
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枡合の龍さん。 ほう~、伊兵衛さんのオリジナルの顔ですね。
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反対側の龍さんです。
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後面の彫物
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いつもの伊兵衛さんは、左側に大き目の獅子、右側に小さめの獅子を配置させますが、これは逆に右側が大きい獅子です。おまけにデフォルメの深い仕上げとなっています。
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迫力満点です。

花台の唐獅子
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鼻先と耳を整形しています。 なかなかの見ごたえがあります。

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所定位置へ移動、大勢が力を合わせないと動いてくれません。

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いよいよ、小屋へ収納。
北河内のだんじりは、台棒なしでは大変な労力が入ります。
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すっかり、小屋に収まりました。
本当にきれいになっています。

小松源助と言えば、八代目や九代目、あるいは福太郎のことを指すが、ここにもう一人の小松源助が存在する。
この源助、目下三台?あると思うが、如何せんこの三台のみで結論付けるにはいささか困難である。
まず、神境町地車の上棟札から「小松源介勝美」なる墨書が発見された。
この「介」の字は、当て字として使われているため「助」の字でも同じことである。
この源助の彫、年代的に見て同世代の‘小松源蔵’の彫に似るが、やや異なる。
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次に、木津のいずみホール展示されている‘四丁目’の蒲団太鼓である。
この蒲団太鼓の虹梁に小松源助の銘があり、『細工人 大阪市東区 本町四丁目 六代目 小松源助 
大工方 宮下音吉』、片方には『明治参拾貮年 十月十九日成工』とある。
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ここで‘六代目’と書かれているので、ちよっと疑問に思われるかもしれないが、明治三十二年時点において六代目の源助が存命していたとは思えず、何か回収された太鼓台なりの彫物を再利用し組み立て直されたものと考えられる。 その源助の彫が、当時からさかのぼって‘六代目’に相当する源助だと判ったうえで、刻まれたもので、つまり、その当時活躍中の源助である‘九代目’とは別の源助の彫という意味のものであろう。
現にその蒲団太鼓に彫られているものを見たら察しがつくと思うが、まず、四面の狭間には‘波に龍’、木鼻は獅子鼻でその他の彫物は‘波に千鳥’や草木類など花鳥もので占められている。 明治三十年代の新調の彫物には、おおかた武者物が付けられる中、このような花鳥ものの新調とは考えにくく、龍の彫のイメージからでも、明らかに小松源蔵期ころ、江戸末期から明治初期にかけての作風と見ることである。
余談になるが、‘大工方 宮下音吉’の名は明治中頃の大工で‘上野’の太鼓台でもその名は見られた。

もう一台は、瀧地車である。
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瀧地車は、四條畷市南野の山手に鎮座する式内社御机神社、宮元の地車である。
昭和四十年代頃より曳かれなくなり、太鼓台への改造の話もあったが、惜しくも平成十三年に解体処分された。
一部の彫物は摂社として祀られているが、この近辺では、彫のよいだんじりであった。
この神社の氏地には、瀧、木間、塚脇、米崎、北出屋敷の五ヶ村あり、かって御机神社境内に五台のだんじりが並ぶ壮大な祭りであったように思われる。 拝殿前が非常に広いのは、その面影を遺しているのであろう。
当時のものが現存するのは、‘木間’のだんじりのみである。
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泥幕花戸口の透かし彫の彫物。↑
北河内において、このような細密な細工は数少ない。

つづく・・・。

彫物師というもの、画家でも同様のことが言えるが、その彫師の持って生まれた造形美やその構築の要素は、生涯において変化しないものと思われる。 その彫から感じとられる印象は、新旧問わず同じイメージとして受け取られ、また晩年作のものであっても、初期の面影が見えるようなところもその本質であるといえる。
<福太郎の前足>
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福太郎の獅子は、全体的にブヨブヨした感じで足先が太くて短い。 足先の彫が‘メロンパン’のような形状になり、指の付け根に大きい丸いマークのような模様が付く。
一方、八代目源助の獅子は、体つきが痩せ形で後ろ足の姿は、‘握りこぶし’のような形となる。
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小松一門の彫物師としての元祖の小松源蔵、この源蔵より以前のものは不明だが、その獅子の容貌は以下の如く。
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つづく・・・

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