彫物名鑑 小松堂

ヤフーのブログから引っ越してきました。 以前のカテゴリーは、そのまま移動されていました。 社寺彫刻、だんじり彫刻や浪花彫物師の彫物および野仏や磨崖仏を紹介します。

2015年08月

『彫清』とは、初代柳原清兵衛からその名がとられている。
はっきりいって初代とか生没年など全くわかっていないが、
そもそも明治末期から大正期の「彫清」に四代目と書かれているところから
話が展開した。

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(池島のふとん太鼓)
初代と思える「柳原清兵衛」の名は、
ここ東諸福のだんじりにその銘があった。
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(東諸福)
東諸福だんじりのシガミの裏面に・・・、
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残念ながら、「○や柳原清兵衛」と「大工芳太郎」の部分しか読み取れない。

ともかく、この彫をもとに、本家の彫として考えてみた。
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(東諸福)
このシガミの特徴は、耳と足と目じりにある。

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(御領)
御領のものと比較すれば、完全にイコールとは言えないが、要素的なものは一致している。

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(東諸福)

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(御領)
龍の彫は、ほぼ同じで鳳凰のストレートな翼(左側)の角度も似ている。

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(東諸福)

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(御領)
後面の唐獅子も同様の彫とみる。


つづく・・・。



ある神戸のだんじりの写真を探しているとき、
ふと目に留まった彫物があった。
何、何とこれは‘徳兵衛’さんではあるまいか!! 。
今日まで、気が付いていないことに、我ながらにして恥ずかしく思った次第です。

じつは、この龍、顔がほんの少し違うのだけれども、
波頭や雲、爪に特徴あり!。
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この脇障子の獅子は、、五軒屋の彫に近い。
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だいたい、このだんじりの半数の彫物は、川原の彫で占められているが、
こんなところに徳兵衛さんが、いたとは!
極めつけは、この彫、、、。
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どうでしょうか?

小路のだんじりは、明治初期、「深野新田」から購入と伝えられている。
「深野新田」とは、現 深野北ではなかろうか?
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(小路)
先代の後幕
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源平合戦、義経が弓をひらうシーン
先代前幕
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神功皇后と(竹内宿祢)
上記の幕は、だんじり購入時のもの、明治初期の刺繍幕。

そもそも、先々幕の包紙に、天保十三年寅壬、深野新田若中御連中への送り状?の墨書があったことによる。
「小路第一区 ダンジリ小史」(昭和58年5月)によれば、‘岩城茂助’、‘岩城宗二郎’からの送付となっている。 この幕は、猩々の幕(赤色)で、某お寺さんにて保管されているらしい。 (私は未調査)

岩城の名は、だんじりの飾刺繍幕でみられる。
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上田原だんじりの龍の刺繍幕には、『岩城縫師橘忠兵衛』の名が読み取れる。(裏側から確認)
岩城(屋)に出入りしていた縫師 橘忠兵衛ということなのか?。

小路だんじりに見られる、‘ジャンケン パー’のお猿さん。
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(小路)
このパーの手は、再生品〔作直し〕だが、このパー猿、中垣内のだんじりにも見られる。

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(中垣内)
また、このパー猿、本家筋にもある。
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(東諸福)
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(先代森 東灘区)
つづく・・・。



ここのお寺さんの山門には、非常に鼻の短い獏鼻。
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(本妙寺)
本堂の龍
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(正覚寺)
ここのお寺さん、現在建替え中で、本堂がありません。
この龍と同じ彫の龍が、ここのお寺にありました。
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(瑞玄寺)
本堂向拝、虹梁の絵様は雲形でなく、松に鶴を彫った豪華な仕上げ。
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(瑞玄寺本堂)
山門には、‘雲に麒麟’の彫が・・・、
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(瑞玄寺山門)
表裏の両面に彫られている、顔を見れば・・・伊兵衛バージョン。
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こちらの龍は元気のある彫。
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(蓮光寺)
この彫は、明治後期の小松彫のよう。
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(蓮光寺)
大東市と言えば、野崎観音(慈願寺)、
ここの江口の君堂に彫物があった。
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(慈願寺江口の君堂)

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江口の君とは平安時代の遊女、西行法師と歌を詠み交わしたという美人さん
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江口の君
野崎観音西門におった龍
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この龍は、彫清タイプ。

大東市において、古くから歴史のあるお寺さん。
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(専應寺表門)
この龍、やはり明治後期の小松彫。
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彫師は、どちらかというと‘松雲’風だが、オリジナルの作とは言えない。
内側の虎、‘松雲’さんの虎の彫が未だにつかめていないので、保留。
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こちらは本堂の麒麟、表門よりもかなり古い。
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さて、問題の表門の獅子鼻。
阿吽のもの、表側の左右についているが、
どうもこの木鼻は、‘源蔵’タイプのもの。
どうしてこのタイプの木鼻が付いているのか、未だに理解に苦しんでいる。
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たしかに、小松源蔵は明治初年まで存命していたことが判ってきたが・・・。

ちなみに、‘松雲彫’の獅子鼻は、以下のタイプ。
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(春日神社 善根寺)

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(淨光寺 大和郡山)

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(今福八幡の子供だんじり)

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(池島 乾ふとん太鼓)


三箇菅原神社、ここにも彫物があった。
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(三箇菅原神社)
なぬ、裏面に刻銘が・・・、
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『彫物師 北野寅蔵』 = 『彫寅』

小松のだんじりでも見られる正面向きの木鼻。
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(須波麻神社)
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蟇股の龍は、大和高田の光輪寺山門と同じ彫。
最近この龍、明治後期の小松に見えてきたが、まだまだ納得はいかない。

特徴ある獏鼻、
非常に長い鼻をもった木鼻
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(常宗寺)
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(安楽寺)
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(西福寺)
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(乗得寺)
同じく蟇股の龍を見れば、
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(常宗寺)
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(安楽寺)
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(西福寺)
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(乗得寺)
ここに挙げた龍の彫にも共通点が多くある。
乗得寺さんのものは、‘彫友’系に近いが、その他は、う~ん・・・。

つづく・・・。

中垣内の彫物に似ただんじりが寝屋川にあった、
それは‘小路’のだんじりである。
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(小路)
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鬼板は、三枚とも獅噛タイプ、
懸魚の鳳凰も正面向きで、中垣内のものと相異なる。 だが・・・、
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(中垣内)
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(小路)
車板の龍は、中垣内の向って左向きに対して、こちらは右向き。
顔や肢が同様の彫。

枡合の麒麟では、
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(小路)
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(中垣内)
枡合の唐獅子では、
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(小路)
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(中垣内)
興味深いことに、もう一方の枡合を見れば、
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(小路)

おっと、ここに本家筋の獅子顔があった。
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(小路)
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(東諸福)
もうひとつ、右側の唐獅子が‘岩隠れの獅子’のポーズになっているということである。
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この‘岩隠れの獅子’、「相野」や「小松」の彫物では見られなく、
ほぼ「彫清」系の彫で見られる。
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(大箇)
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(御領)
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(深野北)
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(清瀧)
この‘岩隠れ獅子’、それぞれの彫師は異なるが、後足が宙に浮いていることに注目したい。

なお、‘小路’のだんじり、
明治初期に深野新田から購入と聞く。
そもそも飾幕の包紙に墨書きがあった・・・。

つづく・・・。

とうとうお膝元、大東市界隈の紹介となりました。
さて大東市のお寺さんには、木鼻に獏鼻や蟇股に龍の彫物が付いてあるところが多くあります。

ここのお寺さんには、親子唐獅子!!。
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(十林寺)
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一見、服部さんのように見え、ちょっとシビアな彫。
木鼻は、象鼻。
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(十林寺)
ここのお宮さんには、いろいろな彫物が・・・。
牛、松、鳥でしょうか。
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(北條神社)
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おっと、この獅子鼻の彫は、泣く子も黙る‘小松彫'
大黒さんのような力神。
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もう一面にも力神が・・・、
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この獅子鼻と力神、
つい最近まで、小松源助(八代目)の筋だと思っていたが、
何の何の、この力神と同じ彫が枚方のだんじりにあった。
これである。
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見るからに、八代目とは異なる。
獏鼻を見れば、
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やや縦長のスタイルで、鼻先を高く伸ばした獏鼻、
明治後期の小松で見られる。
そう、‘松雲'系の彫である。
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(光明寺 東住吉)

つづく・・・。

大東市内で唯一の式内社である須波麻神社。
ここの神社のだんじりが、‘中垣内'のだんじりである。
‘中垣内’とは‘ナカガイトウ’と読む。
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中垣内のだんじり   ちょっと前の写真
このだんじりの彫物の特定がなかなか困難であった。
当初から、小松でない、相野でない、彫又でない、まして服部でもない。
龍や獅子の彫から『彫清』と・・・、でも。
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この後面の唐獅子から、ほぼ『彫清』と判断できたのだが。
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鬼板が、いつもの『彫清』のスタイルになっていないことに気付かされる。
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鬼板三枚の内、前後二枚が、獅子一頭を彫ったシカメタイプのもの。
真中の大屋根後ろのものが、獅噛タイプ。
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どうやらこの獅噛では、『彫清』の本家筋のものと少々かけ離れている。
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以前、岸和田のWAさんが、このだんじりの脇障子の馬を観て、‘彫清の馬’だと言われたことがあった。
そのころの私は、小松も彫清もわからない無知の段階であったため、
どう答えようもなく、どの『彫清』のものを参照したかもわからないままであった。
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この脇障子の馬の顔、服部の馬にも似ているが、黄石公の顔が服部の彫でない。
だが以下のだんじりの馬の顔に似ている。
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(市町)
黄石公もこちらに・・・。
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(市町)
この中垣内のだんじりの彫師、他ではなかなか見ることがないが、
寝屋川に、この彫師のだんじりとそのヒントがあった、、、。

つづく・・・。

別格官幣社として四條畷神社の設営を任された宮大工 田中重太郎師。
宮大工棟梁として、また彫物の細工も行ったと伝えられている。
今となって、彫物にどのようなノミを入れたかは定かではないが、
残された彫物から考察する。

明治二十二年建立の高宮大杜御祖神社本殿。
ここに獅子鼻と蟇股に唐獅子が彫られている。
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(高宮大杜御祖神社)
蟇股の唐獅子のポーズは、‘大箇’のものと似ている。
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(大箇)
片耳を大きく開いた獅子鼻は、彫師は異なるが‘御領’のものに類似する。
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(御領)
さて、重太郎師の作業場があったとされる南野の‘滝’の地に、式内社御机神社がある。
ここの拝殿には、獏鼻と龍の彫物が彫られている。
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(御机神社拝殿)
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(御机神社拝殿)
何と、この獏鼻と瓜二つのものが、堺のお宮さんにあった、
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(陶荒田神社拝殿)
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(陶荒田神社拝殿)
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(陶荒田神社拝殿)
ほぼ、御机神社、陶荒田神社も今まで見てきた『彫友』系の彫である。
ちなみに、‘南出’だんじりと比較すれば、
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ほぼ同彫系列の作で、明治十四年前後の製作と見てもよいのでは、と考えられる。

もうひとつ、非常に似た花台の力神と力士がある。
この花台、他の地車部分の彫と比べても、ちょっと素人ポイところがあるように見える。
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(大箇)
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(御供田)
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(谷川)
この彫が、重太郎師とは断言できないが、
高宮の本殿の作風から見ても、『彫清』や「彫友」とのつながりが大いにあったと考えられないのか?
また新たな発見に期待したい。

漢高祖(劉邦)の龍退治は、彫物図案でしばしば利用される。

これは、廻りの型取りからして、だんじりの車板に使用されていたものと思われる。
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察するに、これは三枚板のものであろうか、
彫物師は、「彫又」さんのよう。
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これは、だんじりのものか太鼓台のものか、はたまたそれ以外のものか?不明である。
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では、これは・・・・、
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何やら龍の数が多く、甕のようなものも見える、
おっと、失礼しました、これは、スサノウノミコトの大蛇退治でした、チャンチャン。


三箇菅原神社のだんじりの中で唯一製作年代のわかっている地車がある。
‘大箇’のだんじりである。 ‘大箇’とは ダイカ と読む。

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大箇のだんじりは清瀧方面から部材を運び、大箇の某裏庭で組み立て上げられ、
明治12年の年号と宮大工「田中重太郎」の銘のあった棟札?があったそうである。
「田中重太郎」とは、この辺の人(住まい)ではないということである。(浜町の木村氏談)

恐らく、三箇菅原神社前に地車が据え置かれる以前、各村々にだんじり小屋があった時代、
大箇のだんじり小屋に何らかの棟札?があったと思われるが、今ではまぼろしの存在となっている。

今となっては手がかりは、彫物のみ。
正面の龍の彫をみると、
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彫友というより、彫清系の龍。

唐獅子を観ると、
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う~ん、彫友に近く、
麒麟の彫では、
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これも彫友に近い、
ちなみに‘中野本町’の麒麟と比較すると、
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(中野本町)
後面の唐獅子では、
いつもの『彫友』のパターンと異なり、
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どちらかというと、‘清瀧’のだんしりのものと同じ、正面顔の下絵が使われている。
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(清瀧)
宮大工『大重』こと田中重太郎師のことは、「ふるさと雁屋だんじり百年祭」の冊子と「大箇地車生誕120年記念誌」に詳しく記載されている。

宮大工として、また、だんじり大工として偉業を残した田中重太郎師、
簡単な彫物もこなし、祭り時期となればガラス眼の修理にも出かけたという。
四條畷神社も手掛け、「御用達」の看板も店に掲げていた。
作業場は、南野(滝・木間)にあり、明治の十年代からかなりの地車に係わったと思われる。
また重太郎師の遺品で、龍の下絵なども数多く残っていたという。
この下絵、今では観ることはできないが『彫友』との関係が大いにあったと考えられる。

重太郎師が手掛けた、
寝屋川市高宮大杜御祖神社本殿(明治22年)や同拝殿の彫物も『彫友』系の彫物で、
四條畷南野の御机神社本殿や拝殿(明治14年前後)もおそらくお膝元の宮大工であるから
間違いなく請負ったと思われる。
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     田中重太郎師 大正15年9月15日撮影    (大箇地車生誕120年記念誌より転載)

つづく・・・。

ここに作成年代が明白なだんじりがある。
四條畷の‘南出’のだんじりである。
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(南出 四條畷)
四條畷の某M氏宅にその棟札が残されていた。
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『河内國讃良郡南野邨南出地車上棟』

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『みずのえ 明治十五年午年五月十日』
この棟札により南出地車は、明治十五年、五月十日に棟上され、ほぼその年の秋祭日には完成され、曳行されたと考えられる。

同年製作の‘南出’だんじりと‘御供田’だんじり。
その大きさは異なるが、彫物形態は、粗細の差があっても、ほぼ同彫物師とそのチームによるものだと見てもよいだろう。
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(南出)
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(御供田)

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(南出 間仕切り)

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(御供田 間仕切り)

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(南出)
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(御供田)
つづく・・・。


かって北河内に大きな深野池(沼)があった時代、
その池の最南端、東端に位置するのが御供田村である。
この地名‘御供田’、この字をまとめに読める人はいない難読地名である。
‘ゴキョウダ’とか‘オクダ’とか、地元の人が聞いても一瞬ためらう。
‘御供田’とは‘ゴクデン’と読み、通称‘ゴク‘という。
社寺に属し、その御供料にあてる田地という意味である。
古くは玉造の鵲森神社の社領であったり、石清水八幡宮の同社領とか伝えられているが明らかなことはわかっていない。

下の神社は、御供田八幡宮である。
昭和40年ころの写真で、パノラマ式につなぎ合わせたものである。
このころ、地車蔵が子供の遊び場となっていたときであり、
地車も石鳥居の横を通って宮出しした時代でもあった。
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(H.N氏撮影)
さて、御供田の地車は、いつのころのものなのか?
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(御供田)
十数年前に、神主さんに聞いたことがある。
ゴクの村は、財政に乏しかったので中ブルを購入、また神主さんの祖父にあたる人が役員をやっていたときの地車である、ということである。 その祖父にあたる人が、明治23年に他界しておられるので、明治23年以前と言うことになる。

もうひとつ、ここに隠された事実がある。
前の地車蔵に残されていた書札である。
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『當村地車新築設篠符』
「世話掛り左に名前記」

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高岡甚造
明治十五年
午 十月十九日
この「設篠符」、地元では‘地車新築・・’と書いてあることから、地車新調でなく地車蔵を新築したものと信じられている。 また財政難のことも個人的な発想とも思われる。
御供田地車は、ほぼ明治十五年に新調されたのではないかと考えられる。
最後に書かれた‘高岡甚造’さんとは、お寺さん(安楽寺)の当時の住職と思われる。
お寺さんも地車新調に賛同した時代でもあった。

昭和五十五年ころの御供田地車
このころ曳行されず、境内にて飾りつけのみになっていた。
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(御供田 後)

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(御供田)
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(赤井)
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(中野本町)
もう一台、製作年が明らかなものがある・・・・。

つづく・・・。



この「彫友」の特徴のひとつ、
獅噛の一枚、真ん中の獅噛 (大屋根の後)のものが、立ち耳状となる。
立ち耳とは、サヤ状で耳穴側が外向きとなる形状である。
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(御供田)
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(谷川)
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(南出 四條畷)
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(中野本町 四條畷)
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(森 交野)
この辺りからバージョン(作風)が少し異なる獅噛。
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(砂 四條畷)
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(大箇)
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(赤井)
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(打上下 寝屋川)
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(平野屋)

この獅噛は‘本家’筋の彫。
足の丸ボッチが大きいので、‘福太郎’の仕上げでしょうか。
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(打上上 寝屋川)
こちらは、‘本家’の彫。
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(東諸福)
恐らく、古市西町の獅噛の一枚も立ち耳だったはずである。 (修理時取替え)
他に、神戸東灘区の先代‘森’地車にも立ち耳の獅噛があったと思うが、
ここで紹介した立ち耳の獅噛、
この時代、江戸末期から明治初期にかけて製作された地車、
大東四條畷方面の地車大工との何らかの係わりがあったとも考えられる。

つづく・・。

大東方面にも多くの『彫清』がある。
東諸福地車
御領地車の屋根廻り
深野北地車の半分
氷野地車
これらの地車は、‘本家’筋の彫で、
獅噛の彫は、足甲が盛り上がり、ごつごつし、いかにもいかつい形相となる。
下記のものは、年代からほぼ三代目の彫清の獅噛である。
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(腹見地車 生野区)
この‘本家’筋の彫と少し異なる彫がある。
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(御供田)
この手の獅噛、大東、四條畷方面に非常に多くある。
口奥ががばっと大きく開き、毛並みの先端がソフトクリーム状となる。
二年前に、中野本町地車から『彫友』の銘が発見された。
この銘、正式なものと判断はできないが、ここでは分類上『彫友』としておく。
この『彫友』の地車、獅噛、龍、唐獅子や鳳凰、鷹と猿などほぼ決まった形となる。

今から、24年ほど前に‘上地車図会’さんから「古市のほうにも、大東にあるような地車がある」と写真を送っていただいた。 〔以下、古市西町の写真は、上地車図会さんからの提供〕
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(古市西町)
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(古市西町)
赤井地車と獅噛や猿の彫が似ている
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(赤井)
正面の龍は、
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(古市西町)
彫友の龍 (後日紹介)というより、こちらは‘本家’筋の龍の彫である。

興味深いことに泥幕の彫を見ていただこう。
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(古市西町)
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(赤井)
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(古市西町)
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(赤井)
この西町と赤井の泥幕、
ほぼ同彫物師が彫ったとしか考えられない。

つづく・・・、

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