彫物名鑑 小松堂

ヤフーのブログから引っ越してきました。 以前のカテゴリーは、そのまま移動されていました。 社寺彫刻、だんじり彫刻や浪花彫物師の彫物および野仏や磨崖仏を紹介します。

2019年08月

彫物師相野徳兵衛直信の思しき獅噛を挙げてみた。
市東a DSC_0107
この地車、二枚の獅噛と後懸魚(首は取換え)、枡合の唐獅子などは
徳兵衛彫だが、武者物は彫又、前車板には小松源蔵の龍が付いている
何故かよく判らない組み合わせとなっている。

相野徳兵衛は、大和型太鼓台の唐破風に獅噛を彫っている。
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三島a DSC_0071_02
奥山a DSC_0250
岡a DSC_0106
小型の獅噛にも関わらず、ごく丁寧に仕上げている。

徳兵衛後期の彫は柔らかさが増え、一見別彫師によるものと思って見たが、
細かいところの素描は、変わっていないことに気がつく。
畑原a Pim0001
垣内a DSC06650

さてこの獅噛、徳兵衛の素描だが、
五軒屋a DSC00467
細かいところの彫があまく、
徳兵衛のオジリナルとは言い難い。

次の獅噛の地車は、他部分もすばらしい彫の地車。
海老江a 西92 Pim0003
徳兵衛の中でベストの彫であろう。



ここ最近、相野伊兵衛直之の新しい発見に乏しく
改めて伊兵衛直之のオリジナル作品を振り返ってみた。
a 私部東2 (2)
地車車板上段に彫られた‘龍虎’
ほぼこのスタイルは、伊兵衛直之の独特のデザイン、天保期ころの作。

a-尊光寺 (2)
お寺さんの本堂蟇股、本堂は天保十二年建立。

a-日の出2 (6)
地車車板に彫られた大きな龍、
ほぼ天保中期以降の作。

a-宗泉寺DSC_0135
お寺さんの門構えに彫られた龍。
天保期以降の作。

a-西室DSC_0146 (4)
もとこの彫物は、地車に使われていたもの。
細かいところは、非常に丁寧に仕上げている。

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地車の脇障子に彫られた雲龍。
伊兵衛直之の後期、晩期の秀作。
角は元々のものではないが、鋭い刻みには圧倒される。
龍の腹の彫を観ればその素晴らしさが判ると思う。
なおこの地車の彫物は、伊兵衛直之の作は一部のみ、
その他は、同門の彫師が行っている。

大阪府豊能郡豊能町余野に十三仏と呼ばれる石仏がある。
府道109号線の中所のバス停から南のほうの農道を行くこと200m、
田んぼの片隅にある。
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十三仏て言っても上部に三尊、中段に九尊、下段に八尊、計二十尊彫られている。
なお裏面の北向きにも同じく二十尊彫られている同多尊石仏である。
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上部三尊はどう見ても錫杖を持った地蔵さん、その両脇にも地蔵さん。
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中、下段も地蔵さんのようである。
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北向き側、この後方は田んぼへの崖なので正面から撮影することは
できなかったが、同じく二十尊彫られいる。
「永禄七年二月」(1564)の紀年があるが、どこかは不明。
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大阪府豊能郡豊能町川尻に珍しい二尊磨崖仏がある。
一般に地蔵さんと阿弥陀さんとのコンビが通常だが、
ここには地蔵さんと不動さんが彫られている。
なお山岳宗教の影響か、この近くにも
不動さんの石仏がある。
豊能町川尻を通る府道4号線から旧道へ入ったガードレール下にそれはある。
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大きさ約50cmの舟形に沈められ、左方に地蔵さん、右方に不動さんが彫られている。
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「天文十七戊申・・・」 (1548)
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力神、力鬼、天邪鬼(あまのじゃく)
それぞれの意味合いは異なるが、姿格好はよく似た存在で
何か重量物を支え持ち上げている。
ここに灯籠を支え持ち上げている石像がある。
a水間観音 DSC_0097
水間観音 貝塚市
a水間観音 DSC_0096

a水間観音 DSC_0091 (2)
何度見ていても飽きない滑稽な存在である。

a_0141傍示天満神社 (2)
傍示天満神社 生駒市高山町
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天邪鬼の居座る台座は、一つものの石を刳って彫ったもの。

香炉を支えている力神
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柳谷観音 長岡京市

こちらは銅製の香炉の力鬼
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東大寺二月堂 奈良市

ちなみに木彫の力神は・・・
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相野徳兵衛直信 作



雲谷派の開祖、等顔それに続く長男の等屋、次男の等益
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雲谷等益

等益の長男の等與
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雲谷等與
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雲谷等與
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雲谷等與

また等屋の長男の等的
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雲谷等的

さて次の達磨画は雲谷でも狩野派でもない
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何と、32年前に描いた小松堂当主の達磨画である。


かって毛利輝元の命を受け、「雪舟」の画法を引き継いだ雲谷等顔。
雪舟の‘雲谷庵’を継ぎ、等楊の一文字をいただいて等顔とした。
雲谷派の開祖でもあり、幕府御用達の絵師「狩野派」に負けじと劣らず
多くの障壁画を残している。
中でも禅画である達磨画は、独自の画法で代々に受け継がれている。
また等顔の達磨画は様々と顔相が変化する。

次の達磨画は雲谷等顔の代表作としてよく図録などで紹介されている。
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達磨画 (大徳寺三玄院蔵 京都市北区) 
「日本美術絵画全集11」 より

次の達磨画は彩色を施したもので、
‘南宗’の画風のようである。
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 達磨画 (徳隣寺蔵 山口県萩市)
「雲谷等顔と桃山時代」より

次の達磨画も彩色されている。
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衣の流れるような柔らかい線描は、雪舟等楊の画法を
引き継がれていると言えよう。
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「雪舟末孫等顔筆」
瓢箪印 「う谷」
陰刻角印 「等顔」
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等顔 後期の作


日本の水墨画の中で最高峰と言われる画僧に雪舟等楊がいる。
雪舟の描いた達磨画は、京都国立博物館に所蔵している国宝
『慧可断臂図』が有名だが、その他の達磨画は真贋極まりないものが多く、
それなりの画人が描いた贋作や全く雪舟と異なる画法で描かれたものなどが見られる。
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慧可断臂図 HPより
だが、次の達磨画は私が35年間、蘭渓道隆、祥啓書記、牧谿、狩野探幽、
雲谷等顔、雲谷等興、海北友松、長谷川等伯、宮本二天など
あらゆる達磨画を見続けた中で群を抜き出ている。
眼光鋭い眼差し、髪の毛や眉毛、髯などは面相筆で一本ずつ描かれたものか、
また平く束ねた筆で一気呵成に描いたものか、とにかく細密に描かれている。
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残念なことに、
「雪舟」の筆跡がなく、右上に「等楊」の角印(割印)が押印されている。
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右上の「等楊」の割印
この達磨画、軸幅から考えてみると大きく描かれている。
反対に考えてみて、画像が左右おのおの二寸ずつカットされ
縮められたとも考えられる。
それに上部もカットされていると見え、おそらくこの達磨の上部に
僧侶による「讃」が書かれていたのに違いないと思われる。
つまり「讃」のある大判の掛軸を何らかの理由により、上部とサイド部をカットし
縮められたとしか思われないのである。
真相は如何に?
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雪舟等楊?の達磨画 (赤外線撮影)



高山町から交野市寺の傍示を通る道端の巨石に
地蔵磨崖仏がある。
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a_0183傍示磨崖仏
高山から傍示へ抜ける道、
この右曲がる手前の巨石にそれはある。
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大きさは約40cmほど、舟形に沈められ地蔵さん?が彫られている。
風化があり、よく見ないとこの場所を通り過ぎて行ってしまう。



今年は梅雨の期間が短かったせいか、また訪問した日が
遅かったためか、おと年と比べれば蓮の咲花が少なく、
花弁も少し小さかった。

<法金剛院 京都>
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a_0001法金剛院
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<立本寺>
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