伊賀市に流れる服部川の南岸、
荒木の北端にある旧伊賀街道沿い約1.5kmほどの間に
多くの磨崖仏が存在する。
その前に、先の大光寺近辺、寺田公民館そばの清正寺に
珍しい阿弥陀三尊の石仏がある。
上部の阿弥陀さんが欠損して残念だが、
下方の観音、勢至菩薩が蓮華座の上に座っている。
この清正寺傍の地蔵堂にも石仏があるを見落とした!
ここから南へ下り、服部川の寺田橋を渡ったところに
服部川
『荒木又右衛門誕生の地』の石碑がある。
伊賀街道の南にある地福寺
ここに服部川岸にあったと云われる地蔵菩薩
何か半跏思惟のような座り方
墓地付近にある石仏
さて、伊賀街道に入ると、
最初にお逢いする三体地蔵
しばらく行くと、
六地蔵と
一体地蔵と
三体地蔵?、上部に種子が刻まれているので三体仏。
もう少し進むと、
七体地蔵?といようか本尊と六地蔵。
下部が埋まっている。
そこから少し行くと磨崖仏群、
弥勒菩薩
八幡宮
春日宮
不動明王
釈迦如来
文殊菩薩
普賢菩薩
地蔵菩薩
薬師如来
目明かし地蔵
目の病気の願掛けの地蔵さん、
かって多くの眼鏡の絵馬が掛かっていたそうである。
これらの石仏群は江戸期以降のもの
ここで一応終わりの磨崖仏群、
服部川対岸方(北)を見るとちょうど中ノ瀬バス停のあたり。
前々回の中ノ瀬磨崖仏もこの伊賀街道から拝めたようで、
今では雑木林で全く見えなくなっている。
荒木のバス停
2020年02月
桐之木谷の地蔵磨崖仏 ~伊賀市寺田 大光寺2
伊賀市寺田の岡山にある大光寺
本堂の裏山が西国三十三ヶ所石仏めぐりとなっている。
本堂右方奥にある地蔵石仏
本堂 獏鼻
本堂蟇股 鶴
西国三十三ヶ所めぐりの石仏
如輪観音石仏
右手が何かおかしいぞ~
本堂左方から時計廻り
石柱で組まれた祠
中には、石柱が崩れているところもある。
千手観音
左黄色のところが‘桐之木谷地蔵’への入口
頂上から少し下りたところにある‘てんぐ岩’
てんぐ岩?
〈桐之木谷地蔵〉
ここを下りていく
下りていくこと数分、すぐ左側にある。
先ほどの北向き三体地蔵に似た独特のお姿である。
石仏愛好家のたいしんさんらが発見し、その時はほとんど土に埋まっていた。
その後、三十数年後に掘り出され、全貌が現われた。
表面が非常に綺麗に残っている。
今では県指定の文化財となっている。
北向き三体地蔵磨崖仏 ~伊賀市寺田 大光寺1
中ノ瀬の磨崖仏から西方へ戻り寺田の里内に岡山遊園地がある
岡山にある大光寺と麓にある毘沙門寺
右に行けば大光寺参道、左は毘沙門寺参道
まず毘沙門寺へお参り
毘沙門寺
本堂は建て替えられたようで真新しい木鼻が付いている
本堂横の墓地の石仏
宝篋印塔や笠石龕仏
鎌倉後期、室町期以降のものが多くある。
石柱の地蔵さん
さて大光寺参道に戻り、行者堂を過ぎ、
てくてく3分ほど歩くと、
石仏の中でベストにはいる精巧な磨崖仏がある。
二尊地蔵?
この隣にある
北向き三体地蔵磨崖仏。
70x136cmの枠とられた中に蓮華座にすわった三体の地蔵さん
南北朝時代の作
参道途中にある石仏
さらに参道を15分ほど行くと、
二尊と一尊の地蔵さんがある。
大光寺はもうまじか
大光寺本堂
雲行きが悪くなり、突然‘みぞれ’が降り出した。
中ノ瀬の阿弥陀磨崖仏 ~伊賀市寺田
彫物見聞録1~相野藤七の龍
相野一門中で抜群の腕前の彫物師相野藤七。
我々が目にするのは天保期から明治初期?の藤七
さて何人の藤七がいたのかは不明だが、刻銘などにより七代と言われている。
ここに藤七の彫と思われる‘龍’がある。
〈本町〉
かなり小さい彫物だが、ノミの刻みは至って鋭い。
〈上三ツ島〉
この地車には『相野伊兵衛』の銘は見られるものの藤七の銘はなく、
伊兵衛と藤七の合作。
〈空〉
地車には銘は見られないが、請負書(古文書)に名が見られる。
〈浄谷寺〉
元図(下絵)は藤七のオリジナルの画だが、爪や波の彫があまく
彫の鋭さがないので仕上げの彫師が藤七でないと思われる。
〈北條北ノ町〉 左右反転画像
細かい彫や刻みが鋭く、またしなやかさもあり、まさに藤七の彫と思われる。
阪原野田橋の地蔵磨崖仏
阪原ののどかな風景の中に地蔵磨崖仏がある。
石仏の周りが開発され、道の舗装や住宅化などにより
かっての野仏のイメージが失われつつある昨今、
ここ白砂川野田橋近くにある地蔵さんは、まさに野仏にふさわしく
ベストな情景である。
旅する人がひと休みするような憩の場のようなところ
供花もなく世話する人もないのか、
また何々地蔵と呼ばれているのかは分からず、
ただひっそりと佇んでおられる。
場所は阪原中村のバス停から国道369号の新道を北へ250mほど行ったところにある
阪原の多尊磨崖仏2 ~阪原中村
阪原にはもうひとつ多尊磨崖仏がある。
青谷橋から南へ約800m行ったところ、阪原中村のバス停近くに
こんもりとした森のようなところがある。
この南側から入る
ここの右側、奥へ20mほど行ったところ。
昨年、訪れたときはクマ笹や樹木の枝が張りめぐらし
前進できなかったが、軽く刈られている。
少し進むとすぐに見えた。
昨年は5mほど行って諦めたが、、
右側に二尊仏と地蔵さん、
左側に二尊仏が二つと
五輪塔?そのとなりにも刻まれているよう?
作風から見て、青谷橋と同作者か?
またここから北へ国道369号の新道(右側の道路)を250m行ったところに
風情のある地蔵磨崖仏がある。
阪原の多尊磨崖仏1 ~阪原北手橋・青谷橋
十兵衛杉と六地蔵 ~柳生下
阿対の磨崖仏から旧道を南下すると
突然お城が現われる。
何かの資料館と思っていたが、個人のお宅であった?!
もう少し進むと、柳生宗矩が芳徳寺を建立する前の菩提寺の中宮寺がある。
中宮寺にある地蔵さん
このお寺の南の丘に
柳生十兵衛三厳が旅に出る前に植えたという杉、
樹齢約350年を過ぎたころ、落雷により枯れてしまった。
二代目はすぐ東側に植えられている。
十兵衛杉下にある墓地の六地蔵
ちよっと読めない!
玉取海女 ~アーカイブ編
私が地車の彫物を見出したころ、この図柄が何なのか全く解らなかった。
〈上田原 小松源蔵?〉
上半身をあらわにし、右手に短剣、左手に宝珠を持っている女性。
そしてその後方から龍が追いかけている。
この図柄、『玉取』 (珠取り海女) という。
〈新屋敷 小松〉
謡曲(能)の題目でもあり、そもそも讃岐の志度寺の縁起である。
簡単に説明すると、
その昔、どの方向からでもお釈迦さまが見えるという‘面向不背の珠’を
興福寺に献上のとき、その珠を龍神に奪われてしまう。
ときの藤原不比等が讃岐に訪れたとき、玉藻という海女に恋をし
玉藻がその珠のありかを見つけ出し、命を投げ捨てて龍神から取り戻すという話。
この図柄、浮世絵でも描かれている。
歌川国芳 龍宮玉取姫 嘉永六年(1853)ボストン美術館蔵 壁紙HPより
(海女なのになぜ姫になっているのか??)
玉取海女の図柄、小松系の地車に彫られていることが多い。
小松の先祖が‘藤原氏’であることからこの題材を取り上げたのかはわからないが、
最古のものとして大道のだんじりに見られる。
〈大道〉
大道地車棟札
大工銘のあとに
『文化四卯六月日 細工人 北御堂 小松源蔵 奉納』
文化4年とは1807年である
北河内讃良型地車には泥幕部に見られる
〈押廻 小松〉
〈古箕輪 小松〉
〈松原 小松〉
右手に握っているものは短刀ではなく、アワビを取る鈎のみ?(後付け)
〈清瀧 彫清?〉
〈北出 花岡〉
さてここに、この「玉取」のベストというべき彫物がある。
作風から小松源蔵の彫に似ているが少々異なり、
確証はないが考察した結果、小松源助ではなかろうかと?
小松源助といっても八代目以前の源助である。
〈瀧 小松〉
瀧地車(御机神社)は、他地区の彫物より優れており
一風変わった獅噛や非常に細かく彫られた花戸口や泥幕などは
すばらしい巧みな彫であった。
昭和40年代、最後の曳行となり、地車小屋を境内へ移動させてから
一度も曳き出されたことはなかったようである。
曳き手も少なくなり、子供用の太鼓台への改造も考えられたが、
地車小屋の損傷もあり、日の目を見なく2001年にあえなく解体された。
その彫物の一部が社として、また拝殿に飾られているが、
盗難にあった彫物もある。 (泣)
阿対の磨崖仏 ~柳生下
大神田磨崖仏入口から柳生へ下ること600m、
打滝川の東岸に磨崖仏がある。
この橋を渡り東岸を行くと、
高さ150cmの阿弥陀さんと70cmほどの地蔵さんが彫られている。
阿弥陀さんは流行病に願いがかなえられるという。
この阿弥陀さん、伊賀市の中ノ瀬磨崖仏によく似ている。
またこの地蔵さんは、豆腐を供えると子供が授かるようになるという、
子供が授かると千の数珠玉をお礼として供える。
お礼として供えられた数珠玉や千羽鶴、
その下になべが見える。
笠置山の石仏5 ~大神田 二尊磨崖仏
笠置山にもうひとつ貴重な磨崖仏がある。
石田正道著の「南山城 石仏の里を歩く」(2015年10月 ナカニシヤ刊)にちょっこり転載されている。
大神田(おおじんだ)と呼ばれる谷にあり、挿絵のような地図ではまったく侵入口がわからない。
だが先日、石仏愛好家の‘たいしん’さんがユーチューブにてこの場所が紹介された。
笠置寺門前(きじ料理旅館前)から南方の柳生へ行くハイキングコースを通る。
この林道コースは200mほど行ったところでアスファルトの拡張された道路にでる。
そこから400mほど行ったところに矢印道しるべがある。
右の道路を行けば柳生へ、
右の山道(ハイキングコース)を行けば笠置山山頂(ゴルフ場北側にあるハイキングコース)へ
磨崖仏へは道しるべ横を下って行く。
下る道は笹葉で隠れているが、しばらく行くと道がなくなり、
木立の上を下って行く。
右手に大きな石が見えるとこの方向で間違いない。
入口からゆっくり下ること約14分ほどで
正面に大きな岩が見える。
大岩の表面に高さ60cmほどの方形に二尊仏が彫られている。
阿弥陀さんと不動さんのペアが彫られることは非常に珍しく、
またこの二尊仏は大変美しく、表情もよく残されている。
なお、かってこの所に行場があったそうである。
笠置寺の石仏4 ~解脱上人の五輪塔
東山墓地に到着すると宝篋印塔の奥に祭壇がある
この祭壇には享保十九年(1734)のもの
その奥には蓮華座
九仏が種子で刻まれている
解脱上人の五輪塔は旧墓地にあり、宝篋印塔の左手奥の道を行くと
大きな笠石龕仏が迎えてくれる
鎌倉後期以後に作られたものと思われ、
その後ろに小さめのものが並んでいる。
さらにその奥に解脱上人の墓がある。
八角の石組の基壇がある。
解脱上人(貞慶)は鎌倉前期、戒律に厳しい学僧で
祖父は保元平治の乱の信西入道にあたる。
笠置山に隠遁し笠置寺の整備に従事した。
解脱上人の墓は海住山寺、三郷町の持聖院にもあり分骨といわれている。
海住山寺の解脱上人(貞慶)・覚真の供養塔
笠置寺納骨堂手前にある新しい地蔵さん
笠置寺の石仏3 ~東山墓地参道
笠置寺には隠れたところに磨崖仏がある。
笠置寺納骨堂横のゲートから入っていくが、
ここから下り坂となる。
表参道から上がってきた道と一転、
原生林のような道である。
下ること10分ほどでひとつの磨崖仏に出逢える。
曲がり角右側に
地蔵菩薩が彫り深く彫られている。
生きた仏さんように見え、笠置寺の石仏は他と少し異なるように思える。
さらに下ること3分ほどで次の磨崖仏、
コケと地衣類のような草、お顔が判らない。
この地蔵さんの裏にも磨崖仏があるらしい。
この地蔵さんの裏に廻るのも大変!
何とかして裏に廻れば、
これも深く彫られた地蔵さん。
少し前まで地衣類がはびこり、ひげ爺さんのような姿だったのが、
先駆者の人がきれいにしてくださった。
(感謝・合掌)
泣いていなさるのか。
この地蔵さんの次は宝篋印塔がある谷間、
木が根こそぎ倒れていて、ここから上りとなる。
地蔵さんの表情も・・、生きている感じ。
宝篋印塔の奥、木立ちの根元に磨崖仏があるのを見落とした、あちゃ~
途中にある石仏
上ること約6分ほどで平道になる。
手前に右へ上がる道がある。
しばらく行けば道幅が広くなり、さらに数百メートル行けばゴルフ場北側にある
ハイキングコースへのつながる道である。
また、この道をまっすぐに進めば、中央遠くにある宝篋印塔が見え
ここが東山墓地の入口である。