『彫又』の第二人者の西岡弥三郎政光、
明治十年代から三十年代にかけて活躍し、
彫物の中では、目の見張る素晴らしいものがある。
この獅噛は、
意外と知られていない東灘区にある弥三郎の地車
弥三郎の彫は、初期のものと中期のものとやや異なってくる。
〈平敦盛〉
この敦盛の彫は若々しい美貌な少年を表しており、馬の彫も見事である。
〈武内宿禰・応神天皇・神功皇后〉
この武内宿禰の彫も弥三郎究極の彫であると言える。
たが地車の受注が増え地車を量産するなか、彫の手間を省くため
表情のない武者顔が主流となってしまった。
彫物に見られる銘
〈賽銭箱〉
2020年04月
彫物見聞録8 ~彫又の名地車
彫又の名地車には‘下田’、‘小綱’、‘国松’などがあるが明治期、住吉大佐が手掛けた
‘奥田’の地車も名彫刻と言えよう。
‘彫又’こと西岡又兵衛の彫が所々に見られるが、
もうひとりメインの彫師が入っている。
獅噛や懸魚など又兵衛の彫と異なるが、
脇障子や三枚板など又兵衛の力量が見られる。
(余談だが、‘後屋’の地車にも又兵衛が見られる)
『堺 彫又』と名付けられるように、かって堺や泉南、竹内街道を通って大和方面にも
多くの堺型あるいは住吉型のだんじりが多く存在した。
地車の老朽化により、転売や新調によりあえなくこの型式のだんじりが
数少なくなり消滅しょうとする中、何とかしてこのままの状態で保存を願いたい。
交野・田んぼの中の石仏
田んぼの土手にぽっんと2つの石仏
左 阿弥陀さんと地蔵さん?の双石仏 右 阿弥陀さん
双仏のほうは座像のようにも見える
眉がわずかに確認できる
廃仏毀釈でこの地に捨てられ置かれたものか?
それにしてもこの前に道があったのか?
交野古文化同好会では‘冷水地蔵’と呼ばれていて詳しいことはわからない。
なお、この北方にも‘沈黙地蔵’と名付けられているものがあるが、発見できず。
場所は第二京阪道路向井田2交差点を東へ約120mのところ。
彫物見聞録7 ~応龍 その原点
瑞獣・神獣の彫物の中で‘応龍’と呼ばれるものがある。
‘応龍’とは翼のある龍のことである。
その原点は『三才図会』にある。
『三才図会』 明(1607年)
『三才図会』とは、中国明朝に刊行された百科事典のようなもので、
応龍とは恭丘山に住み、翼をもった龍であると示されている。
ただし、この『三才図会』の挿絵にはいささか誤絵があり、
この応龍に関しても翼がなかったり、四肢で歩行しているような絵が挿入されている。
後に国産の『和漢三才図会』正徳二年(1712年)刊では、正確な絵図に差し替えられている。
『和漢三才図会』 正徳二年(1712年)
彫刻で古いものは、日光東照宮にある御水舎のもので、
日光東照宮御水舎 寛永十三年(1636年)
二頭の雄雌?の応龍が彫られている。
ただ、この御水舎の応龍の原図はどのような文献から用いられたものかはわからない。
また享保三年刊(1718年)の『題簽欠』によれば
『題簽欠』 享保三年(1718)
‘応龍’から‘飛龍’に名が変わっている。
絵図の下に‘虵鳥’(シャチョウ)と描かれているものがある。
虵(蛇)鳥=シャチョウ⇒シャチ、つまり鯱(シャチホコ)のことである。
浮世絵師の葛飾北斎の絵本、『諸絵本新鄙形』 天保七年刊にも描かれている。
諸絵本新鄙形 天保七年(1836年)
寺装飾彫刻に見られる応龍
浄光寺 (吹田西ノ庄)
願泉寺(貝塚御坊)表門 延宝七年(1679年)
安楽寺(此花区伝法) 万延二年(1861年)
萬福寺 (堺区九間町)
彫物見聞録6 ~源助のお猿
北河内方面の地車、
特に讃良型地車の後面懸魚には至って‘鷲と猿’の彫物が施される。
特に八代目小松源助の地車には多く見られ、
猿の驚愕した表情は、他に見られない巧みな描写である。
〈茨田大宮 明治十一年〉
〈北條中ノ町 明治十二年〉
〈上中 明治十三年?〉
〈雁屋 明治十六年〉
〈奄美 明治十八年?〉
ちなみに小松福太郎の猿は、
〈打上上 慶應四年〉
〈南新田・元町 明治四年〉
八代目源助の猿よりもやや小さく彫られている。
彫物見聞録5 ~藤七の木鼻
ここにオリジナルの藤七の木鼻がある。
〈空〉
〈空〉
現地車の屋根廻りの木鼻は、新しいものに取り替えられているが
この木鼻はほぼオリジナルの彫と思われる。
〈来迎寺山門〉
〈四天王寺唐門〉
唐門の木鼻は藤七彫には違いないが、オリジナルとは言い難い。
〈大阪天満宮〉
天満宮の獅鼻はかなり大きいゆえ、デフォルメが深くなりすぎて
バランスが保たれていなく、仕上げには担当していないと思われる。
〈桜本坊〉
天満宮のものよりバランスが取れている。
〈北ノ町〉
〈本町〉
藤七が係わっている地車、
本町のものはオリジナル性が非常に強く感じられる。
彫物見聞録4 ~彼方の懸魚
南河内にある石川型きっての名地車である彼方地車、
九代目小松源助以下、数名の弟子が携わっている。
私が27年ほど前、初見したときから疑問に思ったことがある。
大屋根正面懸魚(鳳凰)
大屋根後懸魚(鷲)
小屋根後懸魚(応龍)
懸魚の鳳凰と応龍の彫は、九代目源助によるものに違いないが、
両者の頭が非常に大きく彫られているところにある。
応龍の肢も変なところから出ていて、全体の構図バランスが取れていない。
九代目源助の真偽を疑ったこともあるが、
懸魚を下から見上げたらその回答がみえた。
応龍の白矢印の部分、
応龍の胴がぶっ切られ尾ひれがつけられている。
もともとこの応龍にしろ鳳凰は、横幅が現彫物より1.2~1.5倍大きかったと考えられる。
地車の彫物は、柱と柱の幅、間口の大きさで決まり、それに応じて懸魚の大きさも決定される。
つまり当初の設計では、普通の唐破風での寸法取りで製作されたため、
石川型の唐破風のように山なりに大きく湾曲した屋根では、彫物が取り付けられなく、
あえなく寸法を縮め直して作り直しされたと思われる。
もともとの鳳凰や応龍は、さぞかし迫力のあったりっぱな彫物だっただろう。