彫物名鑑 小松堂

ヤフーのブログから引っ越してきました。 以前のカテゴリーは、そのまま移動されていました。 社寺彫刻、だんじり彫刻や浪花彫物師の彫物および野仏や磨崖仏を紹介します。

2020年04月

『彫又』の第二人者の西岡弥三郎政光、
明治十年代から三十年代にかけて活躍し、
彫物の中では、目の見張る素晴らしいものがある。
a1市脇04508
a2 今井町西 09a
a3  05936a
a4  淡輪_0277

この獅噛は、
a5 小路
意外と知られていない東灘区にある弥三郎の地車

弥三郎の彫は、初期のものと中期のものとやや異なってくる。
c 05949a
c 淡輪_0071
c_0058b
〈平敦盛〉
この敦盛の彫は若々しい美貌な少年を表しており、馬の彫も見事である。

d 淡輪_0245 (2)
〈武内宿禰・応神天皇・神功皇后〉
d 新田東 09108
この武内宿禰の彫も弥三郎究極の彫であると言える。
たが地車の受注が増え地車を量産するなか、彫の手間を省くため
表情のない武者顔が主流となってしまった。
a 04523a
a 04517a
a_0096a
彫物に見られる銘
b 新田東 西岡弥三郎政光
b 今井町 弥三郎
b市脇 銘
b 淡輪_0075
b 滝谷不動賽銭箱 01113
〈賽銭箱〉



彫又の名地車には‘下田’、‘小綱’、‘国松’などがあるが明治期、住吉大佐が手掛けた
‘奥田’の地車も名彫刻と言えよう。
a奥田4b
‘彫又’こと西岡又兵衛の彫が所々に見られるが、
もうひとりメインの彫師が入っている。
a奥田1
a奥田2
a奥田2a
a奥田5
獅噛や懸魚など又兵衛の彫と異なるが、
a奥田3
脇障子や三枚板など又兵衛の力量が見られる。
(余談だが、‘後屋’の地車にも又兵衛が見られる)
a奥田4
a奥田3a
a奥田4a
a奥田7
a奥田6
『堺 彫又』と名付けられるように、かって堺や泉南、竹内街道を通って大和方面にも
多くの堺型あるいは住吉型のだんじりが多く存在した。
地車の老朽化により、転売や新調によりあえなくこの型式のだんじりが
数少なくなり消滅しょうとする中、何とかしてこのままの状態で保存を願いたい。

田んぼの土手にぽっんと2つの石仏
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左 阿弥陀さんと地蔵さん?の双石仏 右 阿弥陀さん
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双仏のほうは座像のようにも見える
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眉がわずかに確認できる
廃仏毀釈でこの地に捨てられ置かれたものか?
それにしてもこの前に道があったのか?
交野古文化同好会では‘冷水地蔵’と呼ばれていて詳しいことはわからない。
なお、この北方にも‘沈黙地蔵’と名付けられているものがあるが、発見できず。
a_0507
場所は第二京阪道路向井田2交差点を東へ約120mのところ。

瑞獣・神獣の彫物の中で‘応龍’と呼ばれるものがある。
‘応龍’とは翼のある龍のことである。
その原点は『三才図会』にある。
a1 応龍 三才図会1607
『三才図会』 明(1607年)
『三才図会』とは、中国明朝に刊行された百科事典のようなもので、
応龍とは恭丘山に住み、翼をもった龍であると示されている。
ただし、この『三才図会』の挿絵にはいささか誤絵があり、
この応龍に関しても翼がなかったり、四肢で歩行しているような絵が挿入されている。
後に国産の『和漢三才図会』正徳二年(1712年)刊では、正確な絵図に差し替えられている。
a2和漢三才図会 正徳2年1712
『和漢三才図会』 正徳二年(1712年)
彫刻で古いものは、日光東照宮にある御水舎のもので、
a1日光東照宮御水舎 寛永13年1636
日光東照宮御水舎 寛永十三年(1636年)
二頭の雄雌?の応龍が彫られている。
ただ、この御水舎の応龍の原図はどのような文献から用いられたものかはわからない。

また享保三年刊(1718年)の『題簽欠』によれば
a3応龍 題簽欠 享保三1718 
『題簽欠』 享保三年(1718) 
‘応龍’から‘飛龍’に名が変わっている。
絵図の下に‘虵鳥’(シャチョウ)と描かれているものがある。
虵(蛇)鳥=シャチョウ⇒シャチ、つまり鯱(シャチホコ)のことである。

浮世絵師の葛飾北斎の絵本、『諸絵本新鄙形』 天保七年刊にも描かれている。
a4 諸絵本新鄙形 天保七年1836 1
諸絵本新鄙形 天保七年(1836年)
 
寺装飾彫刻に見られる応龍
a吹田西ノ庄浄光寺8700
浄光寺 (吹田西ノ庄)
a1願泉寺_ 延宝7年1679
願泉寺(貝塚御坊)表門 延宝七年(1679年)
a安楽寺伝法 万延2 1861 
安楽寺(此花区伝法) 万延二年(1861年)
a萬福寺 堺 九間町_0116
萬福寺 (堺区九間町)



北河内方面の地車、
特に讃良型地車の後面懸魚には至って‘鷲と猿’の彫物が施される。
特に八代目小松源助の地車には多く見られ、
猿の驚愕した表情は、他に見られない巧みな描写である。
a茨田大宮 06242 (2)
〈茨田大宮 明治十一年〉
a中ノ町05804
〈北條中ノ町 明治十二年〉
a上中 03
〈上中 明治十三年?〉
a雁屋_0107a
〈雁屋 明治十六年〉
a奄美_0084
a 奄美_0085
〈奄美 明治十八年?〉

ちなみに小松福太郎の猿は、
a打上上_0037
〈打上上 慶應四年〉
a打上上 9427 (2)
〈南新田・元町 明治四年〉
八代目源助の猿よりもやや小さく彫られている。

ここにオリジナルの藤七の木鼻がある。
bs 空 02815
〈空〉
bs 空区1
〈空〉
現地車の屋根廻りの木鼻は、新しいものに取り替えられているが
この木鼻はほぼオリジナルの彫と思われる。
bs_来迎寺0407 (2)
〈来迎寺山門〉
bs 四天王寺唐門 01225
〈四天王寺唐門〉
唐門の木鼻は藤七彫には違いないが、オリジナルとは言い難い。
bs 大阪天満宮 IMGP7011 (2)
〈大阪天満宮〉
天満宮の獅鼻はかなり大きいゆえ、デフォルメが深くなりすぎて
バランスが保たれていなく、仕上げには担当していないと思われる。
bs 桜本坊_0060 (2)
〈桜本坊〉
天満宮のものよりバランスが取れている。
bs 北ノ町 0002
〈北ノ町〉
bs 本町1
〈本町〉
藤七が係わっている地車、
本町のものはオリジナル性が非常に強く感じられる。

南河内にある石川型きっての名地車である彼方地車、
九代目小松源助以下、数名の弟子が携わっている。
a彼方 06628
私が27年ほど前、初見したときから疑問に思ったことがある。
a彼方 00998a
a彼方 00998
大屋根正面懸魚(鳳凰)
a 6877 (2)
大屋根後懸魚(鷲)
a彼方 06611
小屋根後懸魚(応龍)
懸魚の鳳凰と応龍の彫は、九代目源助によるものに違いないが、
両者の頭が非常に大きく彫られているところにある。
応龍の肢も変なところから出ていて、全体の構図バランスが取れていない。
九代目源助の真偽を疑ったこともあるが、
懸魚を下から見上げたらその回答がみえた。
a彼方 01092a
応龍の白矢印の部分、
a彼方 01092b
応龍の胴がぶっ切られ尾ひれがつけられている。
もともとこの応龍にしろ鳳凰は、横幅が現彫物より1.2~1.5倍大きかったと考えられる。
地車の彫物は、柱と柱の幅、間口の大きさで決まり、それに応じて懸魚の大きさも決定される。
つまり当初の設計では、普通の唐破風での寸法取りで製作されたため、
石川型の唐破風のように山なりに大きく湾曲した屋根では、彫物が取り付けられなく、
あえなく寸法を縮め直して作り直しされたと思われる。
もともとの鳳凰や応龍は、さぞかし迫力のあったりっぱな彫物だっただろう。



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