彫物名鑑 小松堂

ヤフーのブログから引っ越してきました。 以前のカテゴリーは、そのまま移動されていました。 社寺彫刻、だんじり彫刻や浪花彫物師の彫物および野仏や磨崖仏を紹介します。

カテゴリ: 浪花彫刻

五枚板のだんじりに刻まれた『彫物師 山鳥亭盛貞 花押』
a1 五軒家DSC00465
a2 山鳥亭2
この龍の顔を見れば 後世において作り直され取り換えられたとも思えていた!

2005年に発見された某地蔵堂の彫物・・・
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隙間から何とか見えた刻書き
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『彫刻 新庄住人 相野山鳥 花押』
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『彫師 山鳥〇』
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残念ながら全体像を見ることができない
木鼻が付いていることにより
太鼓台などに使われていた彫物と思われる?
 
2018年に発見した
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『彫物師 山鳥〇』
この担いだんじりの車板を見ると・・・
a5 山鳥亭1
この龍・・・
上あご下あごが薄く、細長い耳、棒状の角、ちょこんとある眉の棘、鎌状の爪・・
先ほどの五枚板の龍と一致する‼

そして、
偶然、見つけた橿原の某神社の龍!
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まさしく、この龍は山鳥の彫に間違いないと思われる!

新庄住と書かれてあるので ‘彫刻師 芦高妻三郎’と何らかの関係があり
相野を名乗ることにより相野徳兵衛と繋がりがあると考えられる!

ふと見つけた‘青岸渡寺’の如法堂(大黒天堂)の龍と獏
青岸渡寺 大黒天堂1
青岸渡寺  大黒天堂2a
青岸渡寺 如法堂(大黒天堂) 那智勝浦町
(某ブログから画像を拝借)
浪花の彫物師には違いないのですが・・・
ご近所の方、また今後お参りする方、
ぜひお写真をお撮りください!裏面も忘れずに!
よろしくおねがいします‼

神社の祭日 10月19、20日にもだんじりが出されるところがあります!
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三箇地区(宵宮19日のみ)
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太子田
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枡合の彫物で‘獏’が施されているものは北河内の地車で6台あります

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新田
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‘竹に虎’
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‘龍虎’
古い地車彫刻には‘龍虎’の彫物が見られます
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当時(明治初期以前)の虎は‘猫虎’の風貌をしています
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この部の唐獅子は高松彦四郎作
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おわり

宵宮から本宮にかけて天候不順のようなので地車は格納されているところが多くありました。
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国松 寝屋川市

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高田 枚方市

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茄子作 枚方市

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ここの地区は中止かなぁ❓

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今夜(14日)の引き出しは中止となりました

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森 交野市
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岸和田 門真市

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大箇 大東市

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氷野 大東市

ようやく各地区でも秋祭りが行われるようになりました!
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小路地車 寝屋川市
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高宮地車 寝屋川市
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春日神社 寝屋川市国松
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秦河勝の墓 寝屋川市
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寝屋神社 寝屋川市
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寝屋地車
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打上地車庫

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清滝地車 四條畷市
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国中神社境内に咲いていた白いヒガンバナ

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木間地車 四條畷市
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神社参道に延び生えた枝が地車の宮入を妨げる!
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中野本町地車 四條畷市
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お迎え提灯台の装飾の彫刻
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雁屋地車 四條畷市
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岸和田産土神社 門真市
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大箇だんじり 大東市


初夏の地車の虫干し
初夏と言っても もう6月末で真夏の気温となる今日この頃、
猛暑の中、見学に行ってまいりました。
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〔古箕輪〕
この見送り部の車板は小松源蔵さんか?!
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b 0004
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〔茶屋区〕
正面車板は源蔵さんのオリジナルとは言い難く、
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木間の地車に類似するところがある
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〔木間〕
龍口の開き感覚と角度はやはり 初期の小松福太郎の作では
無いかと思える?
b2_0130 名塩北之町
〔名塩北之町〕
中暖簾(間仕切り)の彫刻を見れば
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ほぼ同じ下絵から背景をもじった彫物と見てもいいのではなかろうか!
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〔木間〕

ちょくら近所を周ってきました(2022.10.15)
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伝統芸能の獅子舞

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ここの地車は中止かなぁ?
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拡大して見れば いい感じのお猿さん!
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龍は、古くから障壁画などに描かれてきた。
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妙心寺法堂の天井画  狩野探幽筆(妙心寺パンフより)
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建仁寺の襖絵 海北友松筆 (複製)
龍の彫物は、寺社の蟇股や地車の車板に多く施されている。
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ここに
シガミならぬ龍の鬼板 ‼ があった。
称して “ 龍板 ”  
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A1 今井町
b 更池

屋根の箱棟上に細工された龍の彫刻は、
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ミニ地車や大和型太鼓台にも見られるが、
ここに龍頭を前面に突き出したデザインもある。
A1 一須賀


この龍板は社殿のものだが
現在、この場所が撤去されている?
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おわり

ふと、『仮面の忍者 赤影』(東映時代劇youtobe)を見ていたら・・・
アレ・・・、うむ~ もしかして・・服部さんだ!

「仮面の忍者 赤影」卍党編でちらりと映りました。
a 服部1 (2)
a 服部2 (2)
a 服部3 (2)
ほほ~う、左右に一体ずつ、
a 服部5 (2)
東映時代劇の小道具においてあったのですね!
まさしく、服部さん彫った だんじりの花台です。

以下、だんじりの花台(服部)です。
a 服部0007 (2)
a 服部03878 (2)
a 岡山6 (2)

 おわり

鬼板は名のとおり鬼面の形相で、他の彫物の神獣・瑞獣(吉祥)と対する存在なので、
鬼から獅子(唐獅子)の容姿に変化して行ったと考えられる。
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a20 細田

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a20 木部 シガミ1 (2)
a20 諏訪
a20 生江
a20 中宮
a20 奥田1 (2)
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B01 今津1889 (3)
a19 06905 (2)
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a20 海老江西20 (2)
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シガミは、獅子が屋根にしがみついて屋根を噛んでいる とか
しかめつらをしている容姿だが、
a20 三田 南
車板に付いているのもある。

さて、唐獅子の形相にかわって、獅子一頭を刻んだものもある。
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b  0四條ノ町 シカメ
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獅子があるからには ‘龍板’ もあるのでは・・・

〔なお転載のシガミは撮影当時のものであり、その後だんじりが転売されたり
洗いをかけたもの、解体されたものもあって、あえて名前は伏せています〕

つづく・・・

シガミ(獅噛)とは、だんじりの屋根の妻に付けられる彫物で、
‘シカメ’(顰目)とも言い、通称して ‘鬼板’と呼ばれているものである。
初期形式の鬼板は、神社建築の鬼瓦を板状に模したもので
次第に鬼面状の形相を取り入れた彫刻に変わっていく。

初期形式の鬼板
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b0  春日
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経の巻と呼ばれる筒状のものを三本を五角形の板に取り付け、
ひれと呼ばれるところに雲状の彫刻を備える『獅子口』や
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雲型の板に「鳥衾」(トリブスマ)という反りのある角のような棒を取り付けたのもある。
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鬼板は、板状のものから彫刻を施した鬼面状の風貌に変化していった。
これは、まさに“鬼板”と言うべき
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角と牙のある鬼そのものの形相である。
b5 私部東
b4 私部西
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鬼というものは霊獣・瑞獣の類ではなく、相反する存在なので
鬼面よりも獅子面に変化していったと考えられる。
b0 金田
b0 海老江東 (3)

つづく・・・


ここに“ 六代目小松源助 ”の刻銘のある布団太鼓がある。
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明治三拾弐年の刻銘もあって、
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明らかに、大工 宮下音吉による中古改修時の刻銘であることには
間違いないと思われる。
明治32年当時は、九代目小松源助の活躍期、
それなのに何故、 “六代目小松源助” と記したのか?

その彫を見ると、
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この龍のデザインは・・・?!
a3 東瓜破天神社
〈 東瓜破天神社 〉

ひょっとすると、この彫はよく見る江戸末期の小松源蔵!かもしれない。
他の彫を見ても、
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やはり小松源蔵の彫と考えてもよいのではないか。

明治期では本町四丁目にある彫刻業店名は ‘ 小松源助 ’で統一されている。
弘化期では、小松源蔵が棟梁格であったが、明治期には ‘ 小松源助 ’としたため、
源蔵は隠居の身、源助の名で名乗れば、六代目の小松源助に相当したと思われる。

( 文化二年の小松源蔵の地車があるが、やはり六代目とやや異なる彫にしか見えなし、
この源蔵は六代目以前の源蔵であることに間違いないと思われる )
要するに
六代目小松源助 → のちの小松源蔵(江戸末期から明治初年)
七代目小松源助 → 前、小松福太郎 (江戸末期から明治前半)
八代目小松源助   →    明治19年?他界  (明治10年から19年?)
と考えてもよいのではないだろうか。

この麒麟の彫物をみると、
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d4  奄美_0082
これらは、明治10年から19年ころの八代目源助による
やや扁平な頭部をもった麒麟の彫物である。
これらの造形は、江戸末期から明治初年の七代目源助(福太郎)では全く見られない。
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七代目源助(福太郎) 麒麟の造形

江戸末期に関わらず、源蔵と源助(親子関係?)が共存している状況では、
何代目という表現は適切でないと思われ、
神境町地車の源助(早死?)はどの位にあるかは不明である。
肩書きに何代目という表記が使われた明治中頃、
小松家の先祖を辿っていくと、明治中期の小松源助は ‘ 九代目 ’に相当し、
九代目源助の後は血縁関係から遠ざかり、源助の名を名乗らず 
‘ 小松十代目 ・・・’という表記に代わった。
e1 美濃村刻銘 DSC_0026 (3)
つまり、家系の後継ぎではなく、彫刻業の後継者に代わった。
最近発見された ‘ 九代目小松源助 ’ の墨書き
c5 2751 (5)
M.K氏撮影



『大坂商工銘家集』(弘化三年 1846)には、
c1 大坂商工銘家集 弘化三 1846
「本町通北御堂南門前」とあり、
『浪華商工技芸名所智掾』(明治18年)では、
c2 浪華商工技芸名所智掾M18
「本町四丁目西御堂南門前」とある。
また『大阪営業案内』(明治33年)では、
c2b 大阪営業案内 M33年12月
北御堂南門」となっている。
北御堂と西御堂?
どちらが本当なのか?

また弘化三年から明治18年の間に彫刻業の店名が小松源蔵から小松源助に代わっている。

ところで太鼓台に書かれた墨書きを見れば、
c3 河原_0065
「大阪北御堂南門前」とあり、
お寺での彫刻では、
a0 和歌山県由良町大引 浄明寺 (2)
「大坂本町 西御堂南門前」( 和歌山 浄明寺HPより )
また西教寺の蟇股彫刻では、
a1 大阪市西御堂南門前 彫物師小松源助 (2)
「大坂市西御堂南門前」(M・TA氏提供)とある。

墨書き及び刻銘に出てきた北御堂と西御堂?
数年前まで、西御堂との表記は疑問に思っていが、

北御堂というのは、浄土真宗本願寺派本願寺「津村別院」(西)のことであり、
南御堂は浄土真宗大谷派「難波別院」(東)である。
つまり浄土真宗本願寺の本山は、東と西に分かれていることにより、
 ‘西御堂お西さん(西本願寺) という意味で使われ、お寺さんでの刻銘では、
あえて ‘西御堂’ と表記したのに違いないと思われる。


さて、ここに小松源蔵一派による二台のだんじりがある。
どうも、この木間ともう一台のものは、程遠くない間に造られた感じがする。

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木間
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もう一台のだんじり

ab 4a
ab 4
木間

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もう一台のだんじりの龍

そして、間仕切り(中暖簾)の彫物というと、
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木間

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もう一台のだんじりの間仕切り
オシドリが彫られていて、雌鳥(左)が振り返って後ろを見ている。

後車板の千尋の谷へ落ちる獅子
ab 5821 (2)
木間
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もう一台のだんじりの獅子
何でか、共通点が多くみられる。
そもそもこの二台は、小松源蔵を親方とする彫物師によるもの。
源蔵のオリジナルとは言えないが、親方の荒彫から仕上げに携わったと思われる。
それでは、
源蔵のオリジナルとは、
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上田原
このシガミは源蔵さんに多くあるデザイン。
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上田原
この龍も、ほぼ源蔵さんのオリジナルと思われる。
社寺彫刻で見ると、
ab 00002 瓜破天神社 (3)
東瓜破天神社
ab 御所名願寺DSC_0041 (2)
名願寺 御所市
この龍も源蔵さんの定番であると言える。

先日、奈良大学博物館の拓本展に訪れたとき
ふとある図録に目がいった。
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おっ、表紙が龍間のだんじり(経寺地車の車板)ではないか??!
そう、かって大東市立歴史民俗資料館において
龍間のだんじりの彫物展示されていたものである。
一度、大東市から奈良大学へ出張されたことは聞いていたが、
このような図録が発刊されていたことは知らなかった。
以前、歴史民俗資料館で催しをしていた「だんじりの記録」、「だんじりの記憶」では、
彫物師 小松源助についての記載があったが、‘龍間のだんじり’についての
図録は初めてである。
a_0010  平成28年
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平成28年度『だんじりを活かした地域共働事業実行委員会報告書Ⅱ』より

図録『よみがえれ!だんじりの龍』を少々ひもとくと、
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・・・と非常に詳しくまとめられている。

a_0005 令和元年-12
令和元年12月の彫物展示より

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